七月のことば 宗家
指導は伝達であり 共に学ぶ事である
今年の指標と、二年間行ったキャンペーンに関連し、告白し、私の思いを申し上げたい。
私は何も出来ない時に会長先生から指令を受け教場を担当させられた。会長先生には断る事の出来ない情熱と雰囲気があった。本当に何も出来ない時だった。人前に立てない。挨拶は出来ない。吟はそらんじて吟じられるものは一、二吟。内容を説明できる詩は一つもなかった。日常、空咳など悪い性癖も持っていた。葉書・手紙一通もかけない。人間的にも落第生と意識していた。こんな者が教場を持たせられて何をどうすればよいのだろう?! 教場に出て脂汗というものを初めてかいた。先生に教場を断る事を出来ない!そこで自然に思い及んだのが
(一)先生からの指導吟を伝達しよう。
(二)先生や横山岳精と流統の紹介者になろう。
(三)こんな自分だから、共に学ぶ者になろう。
と云う事である。結局、何も出来なかった時にやらされた事は幸であったし、この姿勢は指導にとって必要不可欠の心構えであると思う。
流統の指導者第一世代とも言うべき、私共を導いて頂いた先生方は人間的魅力に溢れ、(一)(二)に関しては恐ろしいほどの情熱を持っておられたように思い出す。我々第二世代以降の指導者は(三)が加わって落ち着きのあるものになると、今に至り考えます。
そして曲がりなりにも教場を担当し、始めの怯えるような気持ちが感動と同居するのを感じました。それは、こんな私でも教場では、皆様は姿勢を正して相対されます。社会人として、この有難さを思わずにはおれません。自分の方が導かれるようです。
しかし、教場においてよく繰り返し申しました。
「私では皆さん満足できないはずだ」
「会長先生や岳精先生が来られたら、次の週には皆さんお友達を連れて出席されることだろう」
「先生は体が一つで、それが出来ないから私共が代行しているのだ」
「私はその様な意味ではここに来る資格はないが、有り難いと思ってやっている」
「この矛盾した気持ちは、皆さんが私の代わりにやって頂ければよくお解りになるだろう」
この様な気持ちが、そのまま、次の指導者になって頂く為の私の口説き文句になっていた。「指導者に」勧めると、「私などとんでもない」と返ってくる。では「とんでもない」理由を挙げてもらう。
(一)先ずは吟が上手であること。
(二)詩や歴史に知識があること。
(三)人格的に出来ていること。
大体こんなものが挙げられた。さて、(一)に関して、吟が上手であるに越した事はないが、上手・下手で価値判断できないのが吟である。よしんば誰かと比較して上手でなければならない事を条件付けるとしたら、指導者は全国で只一人となってしまう。吟は吟道であって、そんな事ではない。(二)に関しては、そもそも学者が吟をやっているのではない。指導に当たる時は参考書を開けばよい事である。さて、(三)は最も大切なように思われる。(一)と(二)が足りなくとも良いと力強く言っても(三)は最も恥じ入るところである。が開き直ろう! 足りないから欲するのであり、やるのである。人に聖人君子や英傑を求めてはいない。只それを敬意を以て学んでいるのである。素晴しい人は確かに居られます。それよりも、誰にも輝いた心映えがあり、感じる心を持っている。真善美を完全に備えている人はいないが求める資格はあるのです。吟を指導できる人格も同様です。だから
吟を共に学び、真善美を真剣に吟の中にもとめたいのです。多くの人に伝達役を担って頂き、貴重な体験をして頂きたいのです。
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